ボタン付けの夜

 

昨日の晩ご飯の後で、ゆっきぃ(奥さん)にボタン付けを習いました。

もう数日で48歳になる僕はボタン付けが出来ないのです。

昼間履いていたズボンのボタンがとれてしまったので、あぁ夜にでもゆっきぃに付けてもらわなくちゃ…と思ったのですが、

じゃなくて習おうかな…

と思い直しました。

 

そんな事で食後、床に直に二人で並んで座って教えてもらっていたのですが、

その時に感じた事がとっても大切な感じがする何かを孕んでいた様な気がしました。

 

それはボタン付けを習っている時の僕の視線です。

その視線は例えるなら、『ストン、と素直に正座をしている視線』と言う感じでしょうか。

 

その視線には、"もうすぐ48歳を迎えようとする一人の男性が今更ボタン付けを習う” が抜け落ちていて、“ボタン付けを習う” のみがあるかの様でした。

 

何かを教えてもらう時、「上手くなる」「完成させる」という観念が既に入ってしまう事が当たり前になっていた事に気付かされたのです。

 

昨日の視線にはそれが抜け落ちていて、ボタンを付けるという目標は持ちつつも、針に糸を通したり、クルクルと針に糸を巻いたり、といった一つ一つの動作に新鮮な驚きが含まれている様な楽しみがあったのです。

 

空(6歳の愛娘)が思いついたままに作った段ボールで出来た下手くそなおもちゃ、公園から大切そうに拾ってきたどう見ても何ともないただの石、そんないかにも子供ならではの純粋さを感じさせる物達を見てふと感じる、切なさの様な、愛おしさの様な、その感情が何であるのかがわかってしまう様な視線でした。

 

ここまで生きてきた間に当たり前のように身に着けてきた観念が沢山あります。

ただ、その観念の下には曇りのない、曇ることが不可能な、歳を決してとることがあり得ない視線はいつだって存在していたのです。

 

「教えてもらう」「習う」とはこの視線で物事に対峙することではないでしょうか? 

中年どっぷりのおじさんには、中々こういう視線で物事に対峙することが難しくなっていたのです。

 

仕事を辞めて二年半程が経ち、その間ほとんど生産的な事を何もしていなかったのおかげか、ふとそんな視線を取り戻す事が発生しやすくなったのでしょう。

この二年半の間に、料理を始めて見たり、家の修復作業をしてみたり、割と目の前の単純とも思える事に対して感じていた喜びはこの視線を取り戻す喜びであった様です。

 

それと最近感じる変化の一つに、自分の身体の匂いに対する驚きというか、面白さというか、新鮮な印象を感じる事が増えました。別に加齢臭が匂い立ってきたとかいう訳ではないのですが ←自己判断ですが ^^;

何気なく鼻の穴あたりを指で擦った時とかに、鼻水とヒゲと指の匂いが混合された様な独特な匂いに

あれ~❔こんな匂いがこの身体から発生するんだったっけ❔ あ、でも…なんか落ち着く…かも…

みたいな感じになり、その時もやはり同じ視線が発生していると思うのです。

 

所で、今年の秋頃にインドに一人旅に出ようかと考えています。それは去年の3月に東南アジアをふらふらと約4週間に渡り旅をした時に感じた "ああ、生きているのだ" というか生々しい "生" の感覚を又全身でシャワーを浴びる様に受けとめたいからなのです。この動機にも最近になってはっきり自覚が出てきたのですが。

 

見ず知らずの国で、ただ歩き、食べ、聞き、進み、疲れ、寝て、又進む。この何ともない行動がとっても生き生きとしていて、そこにはあの視線があったような気がするのです。

 

ただ、この視線は晩御飯の後のボタン付け、朝珈琲をドリップする時、このパソコンのキーを打つ手の感触、今この朝に聞こえている鳥の泣き声、それらの感触といつでも寄り添うように存在しているのです。

 

ですのでわざわざ遠くインドまでいく必要も無いのですが…

 

でも行こうと思っています。

「きっと何か答えが見つかる」

なんて思いませんし、そもそも答えを見つけるのが人生ではないのでしょう。

 

ボタン付けを無事に終了させるという事だけが成功なのではなく、ボタン付けを味わえる事自体に成功はあると思うのです。