珈琲で混沌を飲む

昨日、珈琲豆を買いに行った。

初めて行ったその店はかなりな有名店らしい。

店の雰囲気も申し分なく、スタッフの対応も素晴らしかった。

何よりその日売られている豆の珈琲を試飲できるのが嬉しかった。

どの珈琲も本当に素晴らしかった!

試飲しながらなんとも言えない幸福感が沸き起こる。

この幸福感は美味しい珈琲を味わった時独特のものだ。

(残念ながら自分のドリップではここまでの幸福感を出せない(T_T))

 

しかし、いつの間にここまで珈琲好きになったのだったか…

 

珈琲を自宅でドリップする事が毎朝の日課になって2年程経つ。

今では珈琲好きである事を周りにも公言している…

 

しかし、より正確に言うならば、 

必ずしも珈琲そのものの味が好きなのか?というと、実は微妙だ。 

 

ほんとに好きなのは珈琲の味そのもの、と言うより飲む時に湧き起こる味わいと言うか趣きと言うか…その独特の幸福感

 

1杯の珈琲の味は、飲んでいく間にも変化し続ける。そして鼻腔を抜ける薫りやしばらく漂うような薫りの余韻もまたとても良い。

 

そして一口一口に沸き起こっては途端にす~っと名残惜し気に消えゆく…その"感覚"

 

それがもう、なんともたまらない所なのだ。

 

「そういうのを珈琲好きと言うんだよ」

 

と言われればそれまでだが…

あえてその微妙な違いを考えてみたい。

 

珈琲の味そのものが好き、というのであれば、どの銘柄のどんな味の特性が好きであり、いつも購入する銘柄が大概決まっている。という具合にならないだろうか?

 

僕にもある程度好みがある。しかし購入する豆はその都度必ず違ってしまう。

というより好きな珈琲の味が特定出来ない。

 

その一口一口に沸き起こる"感覚"を味わえるなら、それが紅茶だろうが中国茶だろうが構わないとさえ思う。

 

そこが珈琲そのものの味が好き、とは言い切れない所以で、たまたま僕が選んで週間にしたのが紅茶でも中国茶でもなく珈琲であっただけなのではないだろうか?

 

ではこの"感覚"

この魅力はなんなのか?

 

そのとりとめのなさ、なんとか掴もうとするが微かな余韻を残しつつもスルスルとこぼれ落ちてしまう一過性…

 

これは"今"という掴みようのない経験そのものなのだ。

この"今"の経験の積み重ねでしかない人生を思わせるものなのだ。

 

この、原因の特定出来ない剥き出しの生、決して掴むことが出来ない生の味わい…

 

 

 

今読んでいる本にこんな話があった。

 

 せいめいのはなし (新潮文庫)

 

生物学者の福岡伸一と、小説家の川上弘美の会話

 

福岡 

生物の営みとは同じことの繰り返しのように見えて、実は全て一回生のものなんです。「あの時親子丼を食べなければ、今、私たちは結婚していなかった」と現在から過去を振り返って言うことはできるけれど、親子丼が結婚の原因ではありません。科学はいつも結果から遡って原因を求めるけれど、ともすると、親御丼を結婚の原因とするような分析をしてしまうことがあります。でも、それは科学的な物語、フィクションなんですね。

川上

人間って混沌に耐えられないものだと思うんですよ…

小説もそれと同じだと思うんです。世界は混沌としているから、それをありのままに書こうとするんだけれど、言葉によって規定するということは、どうしても整理してしまうことになる。だから問題は、混沌とした世界をいかにそのまま差し出せるかで…

 

 

絵、写真、音楽等、芸術と言われるものの多くが、原因がわからず混沌として常に流れ続け、固定化不可能な"生"をなんとか切り取って表現しようとするように、僕にとって珈琲を飲む、ということは混沌(=生)を凝縮させた様な何かを感じる為の行為なのではないだろうか。

 

そして混沌に耐えられない"私"という自我は、この混沌(=生)を味わう事で何とか捉えよう、理解しようともがく

 

 福岡

私の専門であるところの生物学も、そして文学も、あるいは宗教も、それぞれ語られている文体や表現が異なるだけで結局のところ、人間とは何なのか、生きるとはどういうことか、世界はどういうふうに成り立っているかを知りたいというところから始まったものだと思うんです

 

人間という自我は何かを掴みたいのだ。

 

「神よ!科学よ!学問よ!

私とは、生とは、いったい何なのでしょうか?」と。

 

意味も原因もわからないこの"生"の中で。

 

しかし混沌は掴めず、ただ味わう事しか出来ないものなのだ。

 

その消えていくままに…

 

 

 

 

せいめいのはなし (新潮文庫)

せいめいのはなし (新潮文庫)