ゆっきぃご飯と問題認識
昨日、ヒーリング&整体を受けに来てくれた女性の友達がいて、施術後に妻のゆっきぃと僕とその友達の3人でランチを囲んで2時間程楽しく雑談する時間を過ごした。(ゆっきぃと友達は初対面。楽しそうに会話していてこちらも嬉しかった)
その友達とは約15年ぶりの再開だったのだけど、会わない間にお互いに結婚もして子供も持っていた。
話題の中心は現在のそれぞれの家庭の様子で、話の展開中に友達が同じ内容の発言を2回した。
「こんなに料理が上手で優しい奥さんがいて藤山さんは本当に幸せだねぇ〜」
という発言だった。
それに対して僕は、
「そう。本当にそうだよねぇ、ホントそう思う。」
これも二回、僕からほぼ同じ内容のリアクションが出た。普通に。なんの躊躇いも恥じらいもなく。
これは普通の事なのだろうか?
僕にとってはそのリアクションは普通の事ではなかった。
以前までは。
以前ならきっとこんな言い方はしなかったであろうという確信めいたものがある。
きっと、
「まぁ…ねぇ、そうかもねぇ」
とか、
「いやぁー、まぁそうかなぁ」
といった、素直に認められない様な照れ隠しが含まれている様な言い回しで答えていたと思う。
しかし今の僕は本当に幸せな事だと思っているし、素直にそのまんま、なんの恥じらいも躊躇いもなく先程のセリフが口から飛び出す。
そして美味しい食事を用意してくれて、優しい妻がいる、
という事実もしかる事ながら、その事を素直に認め、そのままその嬉しさを表現出来る自分自身に対し、
あぁ、幸せだなぁ
と、しみじみ感じる。
何故そうなったのか、
何故その様に幸せを実感でき、素直に口にする様に変化したのか…
仕事をやめて約2年。
その間ほとんど仕事らしい仕事もせず、かなり自由に暮らしてきた。
だから。
では…ない。
2年近く生産的な事をほぼ何もしない。
というのはハッキリ言って、楽な事ではなかった。
料理にトライしてみたり、ヨガをしてみたり、海外を放浪してみたり、と、色々やってみたいと思っていた事もやってはきたが、それで長い日常が埋め尽くせるわけもなく…
日中、夜、幾度となく襲ってくる虚しさや空虚感、無価値観。
何度も何度もそのような感覚と向きあった。
整体師として働ける店はそこら中にあるし、そんな虚しさを解消できる手段はいくらでもあった。
でもあえてそこは選ばなかった。
生産的な事をせず、周りから評価を得られない、そんな虚しさを、趣味や仕事をする事で誤魔化して何となく前までの日常に戻ってしまうのが嫌だった。
以前なら、
問題を解決する為に何か考えを巡らし、何かを探し、行動し、次に繋いでいた。
でも、それは問題の解決ではなく問題のすり替えである事に気づき始めていた。
それはお金でも、人からの承認でも、精神世界でも同じすり替えでしかないと。
以前から心理学や精神世界の本を読んだり、瞑想に取り組んだりと、心の問題に対する構図は頭では理解できていた。
そして、特にここ二年間はじっと問題を感じ、味わい、見つめるといった日常の生活そのままが瞑想である様な日々を送ったのだった。
そして、
問題をそのまま身体で味わう様な日々、そんな日々を続けた結果、以前では味わう事がなかった幸福感が訪れるようになった。
今だって虚しさ、怒り、怖さ、躊躇、 etc…
そんな感情が起きないわけではない。
又そんな感情が起こる事は勿論嫌なものである。
しかし、一般的にマイナスとイメージされ安いこのような感情が人間として決して無くなるものではないし、これらを無くそうとしてもがく事自体が問題である、という当たり前と言えば当たり前な事、それが体感的、感覚的に捉えられるようになり、思考にジワジワと浸透してきた様だ。
そして、それらの問題を味わっている
"私"
それは、決して問題や感情に傷つけられるようなものでは決して無く、無色で透明で、全ての経験がそこを通り抜けていくような、空間の様な存在感、それが
"私"
である、
という、ことまでが大分感覚的に染み渡って来たようだ。
そうなると、
喜ばしい事も、嫌な感情も以前よりもっとありのまま、剥き出しの感覚で味わえる様になる。
回避する必要があるから”問題”として成立していた”問題”は、問題として存在しにくくなり、一時は問題と思っても問題として継続せず直ぐに気分が入れ替わる。
”今”に意識が向く時間が増え、過去や未来を気にする事も減って更に問題は成立しなくなる。
過去や未来に支配されない日常は今までにないほど輝きはじめる。
そして、今日もゆっきぃの作るご飯は美味しい‼ のだ。