インドの荼毘  ”今” との親和性

今、読みかけの本


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の中のいち文。

人が死んだ後、荼毘(たび)に付されるまでの期間について。


ところが、インドは、ものすごく早い。夜亡くなれば、かろうじて次の日くらいに荼毘に付されるかもしれないが、たいてい当日中に焼いてしまうのである。先日なくなった人も、遺体が発見されたのは朝だったが、夕方四時には荼毘に付されていた。去年の同じ時期、心臓発作で、これまた若くして(四十歳)突然死してしまったブーンドの友達も、午前中に亡くなって夕方には灰になっていた。死後二十四時間以上たたないと、火葬・埋葬の許可が下りない日本とは大違いだ。


ああ、いいなぁ…
と、思った。



日本では一般的に通夜、告別式を経て荼毘に付される。
と言うことは最低でも3~4日は遺体が残る。
その時間が遺族に残されたお別れの時間といった所じゃないだろうか。

もちろん僕も日本人として一般的な感覚は持っている(つもり)なので、この残されたお別れの時間がある事に対して真向から異を唱えるつもりはない。


が、


インドでは、午前中に死んで、夕方には灰になっている。


この潔さ。
これがとても良いものに思える。



過去を惜しむ。別れを惜しむ。決して悪くはない。
しかしそこにある ”過去を示す物(者)” が決して本当の意味で過去に存在した物と同じではない事を誰もが知っている。
実際には過去と同じ ”過去を示す物” が存在しないどころか、昨日と同じ今日は存在しない。


今朝は過去になり昼もまた過去になる。


今朝の朝食の時間は昼にはすでに”死んで”いる。
目の前には新しく、新鮮で、未来永劫もう二度とやってくることが無いたった一回きりの交換不能な ”今” が常に展開されているのだ。


人の細胞は約7年程で全て入れ替わる。一日100億死ぬらしい。
こうやってパソコンに向かっている自分ですら常に更新を繰り返し二度と同じ自分を経験できない。



過去を懐かしむ事、惜しむ事も悪くはないが、絶対に不可能なものにしがみつこうとすることが苦しみである、ともいえる。
しがみつこうとするその手でさえ留まる事が出来ないのだ。


それより、常に新鮮で瞬時に消え続ける ”今” という味わいに意識を向けてみるのはどうだろうか?過去に対して冷たいだろうか?しかし過去にこだわるあまり ”今” に冷たくなっていないだろうか?



インドの人々が荼毘に付された過去について悲しんだり惜しんだりしないわけでは勿論ないと思う。


が、しかし


”過去に憂いている” という正にその ”今” へ対するの意識は、過去がすぐに荼毘に付される分、インド式の方が日本式より ”今” に親和性が高いような気がする。




常に消え続け、死に続けているのは ”自分を含めた今” なのだ。




そのような認識が ”今” の輝きをたった一回きりで交換不能でかけがえのない
ものとして味わえる力を持っていると思う。