月との距離
月曜日には、6歳になる娘の空(そら)を山梨県にある小学校、「南アルプス子どもの村学園」まで自宅のある横浜から三時間程の道のりをかけて、夫婦で車で送って行く。それが4月からの週間行事になった。
最近の空は家を離れての寮生活に大分馴染んできたようで、送り届けて別れる時にも涙を見せる事もなくなり、少し不安そうな顔ではあるが、特にぐずる事もなく「ばいばい」ができるようになってきた。
最初の頃は前日の夜から泣き出し、行きの車中ではママの膝から離れずに「やだ~!行きたくない~」を連呼していた。
その頃と比べると随分気分が楽になった。
特に、小学校での「ばいばい」の時のあの空の情けない顔はとても切なかった。
その別れの時、通学しだして3週目くらいの事だったろうか?
「ばいばい!元気に過ごすんだよ、頑張れ!また4回寝たら迎えにくるからね!」
と声をかけ、半分置き去りにする様に帰ろうとする僕たち夫婦を空がずっと追いかけ着いてきた。目には今にもこぼれそうなほど涙を溜めて。
でも、途中でその足が止まってしまった。
すでに靴を上履きに履き替えていた空がそのままで追いかけるには、許される範囲ギリギリまで来てしまっていたのだ。
その時の空の姿が今迄で一番切なかった。
ギリギリのところに爪先立ちになり、目にいっぱい涙を溜め、こちらを見送り続けるその姿。
恐らく空が産まれてから一番切なく感じた娘の姿だと思う。
その姿がなぜ特に切なく感じたのだろう?
帰りの車中で考えていた。
立ち止まって背伸びをした空。
上履きのせいでそれ以上進めない空。
そこにとても切なく感じるものが潜んでいた。
あんなに自由で、何にも制約されていなかった空。
その空も6歳になって、「上履きで降りてはいけないエリア」と言う実際には存在していない観念ででき上がった境界線にはばまれる様になってしまったのだ。
本当はそんな境界線など無視して、上履きのまま僕たちを追いかけ「一緒に帰りたい!学校に残りたくない!」と抱き着いてきて欲しかった。
しかし、空はそうはしなかった。
自由で何にも遮られる事のなかった空もいつの間にか観念でできた数々の境界線で分断される様になっていたのだ。
勿論、人間としての生活にはルールが必要なことくらいは承知であるし、そうやって成長してもらわないと困ると思う。
ただ、「自由さ」「なんの形も持たないもの」が観念の境界線で自らに制約を持たせ、自らを制限させていく、その切なさ。
それは、背伸びをして涙を溜めた空の姿を通して、かつては自由であったであろう僕自身が「大人」になるにつれ自らを制限し、切り刻んできた痛みと重なっているのだ。
きっと自由奔放であったであろう自分。
便利で、効率よく、全体がバランス良く運ばれるためのルール。
その必要に応じて使うためのルールは、いつの間にか自分を縛る境界線に変化していて、その境界線をはみ出せない自分に苦しむ事が増えてきた。
今の僕に必要な事は、時として不本意に自分を縛ってしまう境界線を必要に応じて使うルールに戻していく事であり、本来の「自由さ」を自らに思い出させていく事である。
それは娘の山梨行きを希望した理由の一つにもなっていて、空には制約ではなく、自ら選択できるルールを身に着けていって欲しいと思う。
そして、そんなルールを選択する個人が集まった家族、夫婦、親子の関係を目指したい。
かつて赤ちゃんの空はママの抱っこで夜空の月に手を伸ばした。
そして掴んだはずの手のひらに月が入っていないことに、にやり、と不思議そうな顔で微笑んでいた事をつい思い出す。
ボタン付けの夜
昨日の晩ご飯の後で、ゆっきぃ(奥さん)にボタン付けを習いました。
もう数日で48歳になる僕はボタン付けが出来ないのです。
昼間履いていたズボンのボタンがとれてしまったので、あぁ夜にでもゆっきぃに付けてもらわなくちゃ…と思ったのですが、
じゃなくて習おうかな…
と思い直しました。
そんな事で食後、床に直に二人で並んで座って教えてもらっていたのですが、
その時に感じた事がとっても大切な感じがする何かを孕んでいた様な気がしました。
それはボタン付けを習っている時の僕の視線です。
その視線は例えるなら、『ストン、と素直に正座をしている視線』と言う感じでしょうか。
その視線には、"もうすぐ48歳を迎えようとする一人の男性が今更ボタン付けを習う” が抜け落ちていて、“ボタン付けを習う” のみがあるかの様でした。
何かを教えてもらう時、「上手くなる」「完成させる」という観念が既に入ってしまう事が当たり前になっていた事に気付かされたのです。
昨日の視線にはそれが抜け落ちていて、ボタンを付けるという目標は持ちつつも、針に糸を通したり、クルクルと針に糸を巻いたり、といった一つ一つの動作に新鮮な驚きが含まれている様な楽しみがあったのです。
空(6歳の愛娘)が思いついたままに作った段ボールで出来た下手くそなおもちゃ、公園から大切そうに拾ってきたどう見ても何ともないただの石、そんないかにも子供ならではの純粋さを感じさせる物達を見てふと感じる、切なさの様な、愛おしさの様な、その感情が何であるのかがわかってしまう様な視線でした。
ここまで生きてきた間に当たり前のように身に着けてきた観念が沢山あります。
ただ、その観念の下には曇りのない、曇ることが不可能な、歳を決してとることがあり得ない視線はいつだって存在していたのです。
「教えてもらう」「習う」とはこの視線で物事に対峙することではないでしょうか?
中年どっぷりのおじさんには、中々こういう視線で物事に対峙することが難しくなっていたのです。
仕事を辞めて二年半程が経ち、その間ほとんど生産的な事を何もしていなかったのおかげか、ふとそんな視線を取り戻す事が発生しやすくなったのでしょう。
この二年半の間に、料理を始めて見たり、家の修復作業をしてみたり、割と目の前の単純とも思える事に対して感じていた喜びはこの視線を取り戻す喜びであった様です。
それと最近感じる変化の一つに、自分の身体の匂いに対する驚きというか、面白さというか、新鮮な印象を感じる事が増えました。別に加齢臭が匂い立ってきたとかいう訳ではないのですが ←自己判断ですが ^^;
何気なく鼻の穴あたりを指で擦った時とかに、鼻水とヒゲと指の匂いが混合された様な独特な匂いに
あれ~❔こんな匂いがこの身体から発生するんだったっけ❔ あ、でも…なんか落ち着く…かも…
みたいな感じになり、その時もやはり同じ視線が発生していると思うのです。
所で、今年の秋頃にインドに一人旅に出ようかと考えています。それは去年の3月に東南アジアをふらふらと約4週間に渡り旅をした時に感じた "ああ、生きているのだ" というか生々しい "生" の感覚を又全身でシャワーを浴びる様に受けとめたいからなのです。この動機にも最近になってはっきり自覚が出てきたのですが。
見ず知らずの国で、ただ歩き、食べ、聞き、進み、疲れ、寝て、又進む。この何ともない行動がとっても生き生きとしていて、そこにはあの視線があったような気がするのです。
ただ、この視線は晩御飯の後のボタン付け、朝珈琲をドリップする時、このパソコンのキーを打つ手の感触、今この朝に聞こえている鳥の泣き声、それらの感触といつでも寄り添うように存在しているのです。
ですのでわざわざ遠くインドまでいく必要も無いのですが…
でも行こうと思っています。
「きっと何か答えが見つかる」
なんて思いませんし、そもそも答えを見つけるのが人生ではないのでしょう。
ボタン付けを無事に終了させるという事だけが成功なのではなく、ボタン付けを味わえる事自体に成功はあると思うのです。
生きるって何?
先日、友人から質問というか、つぶやきというか、藤山夫婦宛にこんなメールが届いた。
生きるって何?
生きるってどういう事?
何をもって生きるって言うの?
ん?
何事か起きたのか?
でも結局、その友人に特に何か大きな問題があったとか、変なことに巻き込まれているとか言う訳ではない様だったのでひとまずは良かった。
どうも、そんな事をふと考えてみる機会があったという事らしいのだ。
しかし、
んー…
どうしたもんだろうか…
夫婦してちょっと戸惑った。
質問の性質が漠然としているだけにどの様な方向から答えるべきなのだろう?
そして、僕はこんな感じで返した。
どの方向から答えるかにもよると思うんだけどさー
多分誰もが
自分で生きてきた
とか、
自力で生きている
って自覚はないと思うよ。
特に意識しなくても生きちゃってるでしょ?精神世界では、
あなたが命を持っているんじゃなくて、命があなたを持っているんだ
っていう言い方をするしね。
すごい深いテーマだね➰🤔
ちょっとあっさりし過ぎな感じもしたけど…
後は他にどんな答え方が考えられるだろう?
生きるとは、呼吸をして体が細胞分裂を繰り返して…$^た&!$ギ@%ウ*%5( ´Д`)=3
みたいな生理学的内容のもの。
自分が本当にやりたい事で生きるって事じゃない?与えられたレールの上で一般常識に縛られている人生では本当の意味で生きてるとは言えないんじゃない?
みたいな生きるという事に対する意義的な答え。
魂が人間という肉体をまとって輪廻転生を繰り返し、レベルを上げていく過程を生きるって言うんだよ。いずれは大いなる意識と一体となり……
おお〜!ザ・精神世界‼ 的な。
ま、色んなパターンというか方向性というか、答える人によってかなりカラーが変わってきそうな気がする。
でも結局は、こういう問題って正しい答えは何か?
よりも、
自分がすっきり、ストン、とするのはどういう答えか?
だと思うのです。
で、僕的にはやっぱり、
「気づいたら今日も生きてた」
「何だかわからないけど、生きるって事が起きてたんだわ」
あたりかなぁ… と。
生きるって事に意味なんてあるか分からないし、生きるって事が価値のある事なのかも分からない。
でも、
「気づいたら生きるって現象に巻込まれている僕がいました」
っていう。
どんな偉い人や、聖人とかが出てきて何と言おうとも、例え神様みたいなのが目の前に現れて
「人生とは」
とかのたまわられちゃっても、
その答えに僕が納得いくかどうか
僕がどう考えると人生を素敵だと思えるか
が1番重要な事だと思うわけです。
僕達は日々を生きているといつの間にかそれが当たり前になってしまう。
この全く意味不明!!全く奇跡!!全く表現不可能!!である「生きる」の事が。
そして、
これではいけない、もっとこうあるべき、あっちが良い、こっちは悪いと問題を抱え込む。
この全く意味不明な「生きる」の奇跡の上にいて。
だからたまに思い出すべきは
「気づいたら生きてるぞっ‼」
という、この奇跡、この神秘、ではないだろうか。
何だ!!この体験とは!!??
そして今日もコーヒーを入れよう!
この当たり前で奇跡的な朝に。
ごく普通で、なんの変哲もない奇跡的な朝、その朝をとっても普通でとっても奇跡的な家族と一緒に過ごそう!
お金の事とか、健康の事とか、仕事の事とか、考えてみれば問題と言えば問題と言えなくもない事もあるかもしれない。
でも、「生きる」はたった今、
奇跡的に起きている‼
神時間とサタン時間
気持ちの良い時間を神時間
気持ちの良くない時間をサタン時間として
焦り、無価値観、心地悪さ、イライラ感、
そんな負の感情が湧く時がサタン時間。
そんな状態の時は
安心感、平和感、幸福感という感情が湧く神時間を求める。
でも最近はサタン時間はサタン時間そのままで良いのだ、という事が腑に落ちてきたようで、
「早く神時間にしたい」
「何とかサタン時間を抜け出したい」
という感情が起きたら、
それもまたそのままで良い、という認識が起こりやすい。
するとサタン時間は氷解し、サタン時間がもともと神で構成されていて、神時間の仮装的な側面でしかなかった事が感覚される。
「サタン」という字を虫眼鏡で拡大したら「神」という小さな字で構成されていた、みたいな。
最近、以前より幸せで人生をより幸福に過ごせるようになって嬉しいかぎりです。
このように書くと何か良い事が日常に増えたように聞こえるかもしれませんが、良い事が増えたというより、嫌な事として捉えていた物事に対してOKが出せる事が増えた、という方がより正確な感じがします。
これは結果として良い事が増えたともいえるのですが…
大人の感情、子供の感情、又は汚い感情、清い感情、感情にそんな分類はないのに思考はついついこれは良い感情、これは悪い感情と区別したがるので心が苦しくなるのだと思います。
人を妬む事も、人を羨む事も、人の評価を気にする事も、それでそのままで健全なのだと思います。
今度もまた妬んでしまった、羨んでしまった、評価を気にしてしまった、と反省してしまう事もそれでそのまま健全なのだと思います。
その健全さを認める方向性が結果として妬む事や羨む事や評価を気にする事が少なくなっていく方向性だと思います。
だから人生には反省だけが必要無い事であったのだ、とついつい反省してしまいます。
変えるべき事も、変わらなくてはならない事もなく、そのままで良かったのだ、ありのままで良かったのだ、と反省してしまうのです。
もちろんこの「反省」も虫眼鏡で見れば「神」で構成されていて。
地図を捨てろ!
以前より随分と自由になった感覚があつて、人生が軽やかで、これという理由もなくウキウキする時間が増えた。
幸せな時間が増えてとても嬉しく思う。
以前にもこのブログ上で取り上げたこの本、
「せいめいのはなし」
の中、
人間の中にもマップラバー(地図好き)という、地図で全体像をマクロに鳥瞰してどこに何があるかを把握してから、具体的な行動を始めるタイプと、マップヘイター(地図嫌い)という、地図などに頼らずまわりの探索行動・試行錯誤を繰り返しながら、自分の目的地に近づいて行くタイプがいます。マップラバーは自分の現在地が定位されて、どこにいるかわかっていないと不安になってしまう。
こんな話があった。
僕は本来マップヘイターだと思う。
以前はマップラバーにならなくてはいけないと思い込んでいた。
人生は何が起こるかわからない。だからしっかり目標を立て、計画的にリスクの少ない道を選ぶべきだと。
しかし、本来がマップヘイターな僕がマップラバーになれるわけもなく、周りの上手くやっていそうに見えるマップラバーと自分を比べては自分を卑下していた。
しかし、様々な人との出会い、話、本等の影響で自分はそのままマップヘイターで良いし、その方がよっぽど面白く、ワクワクと人生を楽しめるのではないのか?と、思い始めた。
今はマップヘイターこそ我が人生!
と開き直っている。
約束事を忘れたり、計画性の無さに周りの人から呆れられても、
「すいませんね〜、なんせマップヘイターなもんで」(︶^︶)
ですます。
でも、たまに自分の歩いてきた過去のマップを眺めてみるのは面白い。
へー、こんな思いもよらないコースを歩いてきたんだなぁ〜
と。
しかし未来のマップは空白のままで、歩いてみて始めてマップが出現する。
こう考えるだけで十分ワクワクしてくる。
そして今なら思う事。
僕等の生きるこの世界は毎旬毎旬ダイナミックに変化している。なのに地図など持ってどうなるというのだろう?
そんなあてにならない地図などとっとと捨ててしまって "今" 立ち上がってくる道を楽しみたい。
夫婦の大切なテーマについての会話
今日、夫婦での会話で大切な内容が立ち上がってきた。
今までも何度となくお互いに確認し合ってきた内容ではあるけれど、せっかく始めたブログでもあるし、日常生活を送っている間につい見えなくなってしまう事があるので書いておこうと思う、自分のためにも。
これは、僕達の人生における、
立ち位置、向かい方、スタンス
に関する内容。
ズバリ!
好きな事を選ぼう!
たったこれだけの事だ。
例えば、ボランティアが好きならやろう。
でも、正しい事だから、立派な事だから、そんな理由ならやらない。
お金儲けが好きならやろう。
1円でも多くお金儲けするために、ひと目もはばからない事が恥ずかしいとか、格好悪いとかの理由でやめない。
好きならばやる。
好きな事を選ぶ時、
それが、危険を伴うとか安定を脅かす様な何かしらのリスクを伴うような事が予測されても選べる限り選ぼう。
好きな事を選んだ結果やってくる良い事も悪い事も人生の刺激、スパイス、いろどりだから。
やるのかやらないのか、どちらが好きなのか迷う時、
どちらでも良い。
どちらを選ぼうが大したことはない。
もっと生(せい)を、生(なま)の生(せい)を、むき出しの生を楽しみたい。
このように書くと、何か派手だったり一般的な生活からかけ離れた事を選ぶのが良い事のような印象もあるがそうではない。
安定的な生活だろうと(そんなものがあれば!)、
派手な生活だろうと(そんなものがあれば!)、
もともと生は生々しく今も目の前で展開している。
正に、こののんびりした昼下がりだって他の経験と比べて全く引けを取らない生々しさだ。
この生々しさに気付けるだけ気づいた上で、
好きな事を選ぼう!
まずは全肯定 (^o^)
藤山家に来ていただくお客様の悩みの内容を聞いていると割と多いのが、
なかなかストレートに自分の感情が出せない
とか、
いつもウジウジ考えてマイナス思考になる、
とか、
つい人目を気にしていまう、
そんな感じで苦しんでいる人が結構多いんです。
凄く良くわかります。
でも、これ結構落とし穴というか、現代トリックにはまっちゃってるかも。
僕も結構ハマッてました。
いつの頃からか、やたらと
「ストレートに感情を出せる事が良い事で、いつもキラキラ前向きにやりたい事をやって自分らしく生きる」的な?
そんなブーム的なもの感じませんか?
僕は結構これにやられました。
自分にはやりたい事や熱中する事がなくて何となく虚しかったり、一生懸命仕事に打ち込めている人をみて自分も何かを探さなきゃ。
みたいな (-_-;)
で、色んな本を読んだり、セミナーに通ったり、何とかこんなメリハリの無い自分を克服しようとそれなりに頑張ってみたんです。
で、
やめました。
だって全然変われなかったんです。
いっときは良い感じの日々が訪れたりするけど結局またあの虚しさがやってくるんです。
で、
今。
とっても幸せに過ごせるようになりました。
あれだけ改善しようと、前向きに頑張る事を、
諦めたら。
ウジウジ考えちゃうし、目標に向かって走りたくても目標さえ見つからない、そんな自分でいいか、って諦めたら。
そしたら
いつの間にか勝手にやりたい事はいっぱいあるし、必要な事は必要な時に言える様になっていました。
あんなに気にしていた人目からもだいぶ開放されました。
人見知りもなくなってました (^o^)
(←これ、気付いた時結構ビックリしました)
今だって気分が冴えなくて、モヤモヤと考えがちで曇り空。
そんな時もあります。
でもそれを許すようになったんです。
だって無くならないんですもん。
無くならないものを無くそうと努力するって(¯―¯٥)
だからもしそんな感情に苦しさを抱いているなら、まずはそんな自分を全肯定してみて下さい。
自分らしく、充実したいなら。
「あ~又くよくよ反省しちゃったよ」
って思ったら、
又くよくよ反省しちゃった自分で良し‼‼
って。
こんな自分肯定できるかよ٩(๑`^´๑)۶
って思っちゃう事をそのまま肯定(^^)v